ボローニャの会話スタイル
地元の知人とお店などに行くと、
なにか問題、なにかある度に、
男女問わず、彼らはよく話す(シャイで話さないイタリア人も勿論いる)
いつも思うのだけど、
それらの会話の雰囲気は、けっして楽しそうな感じではなく、
こうこうで、これで困ってて、こんな事情で、、とか、くどくどと説明したり、情報共有するのです
でも、それが、ボローニャらしいスタイルという言う。
不思議だったのだけど、
情報が不足していると、憶測で悪いことを考える人が、
なんだか多いのです。
女性のお友達に聞いてみると、
分からないと、嫌なことを想像するものでしょうって!
だから、説明する、話す、出来る限り情報交換するのが、
彼らの不安を解消し、
結果的に、物事は、スムーズに進む。
面倒だな、、と日本人なら思うかもしれない。
でも、そういうスタイルみたいです
先日、こんなことがあった。
ボローニャ大学の図書館に行ったとき、
入口で、満席だからと入館を拒否される
(荷物を預けるためのロッカーの鍵をもらえない)
→ よく行く図書館でなく、つまりは怪しまれてた
その日は前回に問い合わせてあったCDを館内で借りる予定でパソコンも持ってきていたので(館内には聴ける施設はない)、
何度も重いパソコン持ってこれないし、借りるものも決まっているし、誰かが出ていくまで待つよ、と色々説明をすると、、
CDだけなの?と聞いてくる
今日はそんな時間ないし、用事はCDだけで良い、
という言うと、ロッカーの鍵をくれた😆
実際に、寒い日で、図書館が混雑していたのは事実らしいけど、
残り僅かな鍵を出さない、
ということで、拒否されていたわけです
聞いてみて、ダメ、と言われても、
引き下がらずに、聞いてみる、事情を話す、、
と、実は通ったりする。
ちなみに、融通が利くのは面白いよねということを、あるイタリア人に聞いてみると、
ルールよりも、その人の個人的な感覚でOK!というのを重視するんだって言ってました
面白い文化です
(全員そうであるわけでもちろんなく、あくまで私の得た個人的印象です)
人の心理、として捉えると、
これらのタイプは、言葉に依存しているところが、大きい気もします
言葉というのは、ツールであって、
お互いの感覚や思いを、完璧に言葉で伝えることは、そもそも不可能なわけで、
音楽や芸術が直接、感覚に訴えることで、ある意味で、言葉より勝るのは、そこにポイントがあります
感覚が鋭い、開いている人は、実は言葉はそんなに重要でなかったり。
外国人とのコミュニケーションの際に、あるレベルまで来ると、
たんに語学のレベルを上げるだけでは、超えられないことが出てくると聞いています。
文化による感覚の差や、自分のなかでの苦手意識、
別のものが、言葉自体は堪能になっても、
なにか、そのコミュニティにうまく馴染めない、入れない、、という課題が出てくるのだと思われます。
言葉に依存している文化や、そういう人に対してほど、語学ができれば、なんとかなる、とも言えます。
どっちか良いとか悪いとかでなく、特徴ですよね。